社会人一年目

2年ぶりくらいのブログになるはずなんだが、

今回もまた冗長に近況を垂れ流したいと思う。

識者の風俗レビュー等に代表されるような

読むことに対してこれといったメリットも皆無なため、

本当に時間のあるときに読んでいただければ幸いである。

・・・

さて、社会人(社会の歯車)になってからほぼ一年が経つ。

学生時代のように緩急のついた生活などとは程遠く、

社会という巨大な機械を動かすための小さな小さな

歯車だということを常に考えるようになってきた。

どうやら社会人というものは約40年、この小さな歯車として懸命に機械を動かすことを義務付けられているらしい。

しかし世の中の大多数の人間が(歯車の大小はさておき)、

このように労役に勤しんでいるわけではあるが。

かくいう私も小さな歯車の一つ、週5日はその小さな役割をきっちりとこなしているわけである。

入社してからというもの、あまりにも時間の流れが速いと感じる。学生生活のように生活に緩急がないためである。

決まった時間に起床し、歯車として役目を果たした後は、次の日のために就寝する。そうやってシステマチックに日々が過ぎ去るため、早くも1年が経とうとしているわけである。

疑問に思わないことを疑問に感じる。

個々として生きること自体が“アブノーマル”とされて、

歯車として回転し続けることが美徳とされる社会に。

近年はどこの会社でも“多様化”を標榜し、人材の育成に努めている風潮があるがそれ以前の問題であろう。所詮この多様化が進んだところで、歯車に“装飾”を加えただけになるのであろう。根本的なところは全く変わってないのである。

閑話休題

最近ミッドサマーという洋画を鑑賞した。

多く語ると識者から“修士課程の学生に質問する教授陣”のような袋叩きにあうことが容易に想像されるため、ここからは独断と偏見による私見を述べたいと思う。(ネタバレ注意)

この映画の本質(だと私は考えている)について、

私は“究極までシステム化された人間”だと考えている。

劇中内で、年老いた老人たちが自殺を図るシーンがある。

それが舞台の寒村では美徳とされているのである。

(というのも、年老いた人間は人間としての役目をすでに終えており、次の世代に命を与えるという意味が込められているため)

人間の一生にはそれぞれ段階に応じた役割が決められており、

それを全うすることが美徳とされるこの寒村の考え方は、

まるで定年退職までに結婚、出産、家庭を持つことが暗黙の美徳とされる我が国の同調圧力を体現したかのようなシーンであった。他にも、一定の年齢に達した少女が男性と性交をおこなうシーンがあるが、このシーンも単なる濡れ場ではなく、人間としての役目を果たすための行為だと解釈することもできる。

興味本位で試聴する若年層からの評判が著しく悪いのは、こうした北欧の一寒村という巨大な“機械”ではなく、度々登場するゴア描写や濡れ場に目が向いてしまうからであろう。

労役に課されてから是非とも再試聴してほしい。

私は基本的に巨悪を挫き弱気を助ける、いわゆるハッピーエンド的な展開が好きなためあまり好ましい作品ではなかったが、

少し胸をちくりと刺した作品ではあった。

冒頭で述べたとおりやはり冗長になってしまったが、

これが社会人一年目として感じた私の思いである。

このような疑問を疑問と思わなくなり、完全に歯車の一部と化してしまうことが恐ろしい。しかし楽にはなれるのだろう。

その狭間で揺れながら、また月曜日になると摩耗しきるまで機械を動かす歯車として、労役に勤しむのである。

川を眺める

人には誰にでも“趣味”と呼べるものがあるのではないだろうか。私の周りでも車、バイク、読書、映画、カメラ、スポーツ、と列挙するときりがない程多くの趣味が存在する。これは私の持論だが、人は多かれ少なかれ趣味を持たずして生きてはいけないと思う。その対象が仕事であるという奇特な人と会ったことがあるが、仕事のやりがいについて滔々縷々と話す彼は、本当に幸せそうであった。閑話休題。今回久々にブログを書こうと思ったのは、理解され難いであろう私の趣味についてである。ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、私はバイクが趣味である。それに付随して旅行などの趣味も併持してはいるが、今回はもう一つ、大学生になってから新たに加わった趣味について書いてみようかと思う。その趣味こそ、本題である“川を眺める”ことである。

初対面の人と会話する際、会話のネタに趣味を挙げる方は多いであろう。共通の趣味が対人関係の潤滑油になりえることは、この私の22年という短い人生の中で学んだことの一つであるが“川を眺める”という趣味について理解を得られたことはそう多くない。むしろ全くない。それはそうである。なにしろ、ただ川岸に腰掛け川を眺めるだけなのだから。相手からするとそこに共通性は皆無で、もしかしたら私のことを友達のいない寂しい人間、精神病でも抱えていそうな人間と、内心嘲っているのかもしれない。...精神病はさておき、友達が少ないのは確かであるが。また話が逸れてしまった。本題に入りたいと思う。文章が冗長になってしまうのは、私の悪い癖である。

先程も述べたように、川を眺めることは特段非日常的なものではない。ただ川岸に腰掛け川を眺めるだけである。時折嗜むタバコやコーヒーは、調味料に過ぎない。あくまでもメインディッシュは“川”なのだから。私の通学途中には、古都の一級河川である鴨川が滔々と流れている。日本史に聡明な方、旅行が好きな方はご存知であろう。私はいつからか、その川に魅せられていた。

初めは消極的な理由であった。
私は1年留年している。親しかった級友たちはみなそれぞれの道を邁進し、私だけが未だ5年目の秋を過ごしている。それは構わない。しかし、かつてのように軽口を叩ける級友や、愚痴を零せる親友は、1人として、もういない。いつの日から校内にいることが苦痛になり、辺りを散策することが日課となった。ある日、講義の合間に鴨川まで歩こうと思った。なんてことはない、ただの思いつきである。しかしいざ来てみるとサークルの大学生や観光客か゛充溢しており、半ば辟易する結果となった。どこか落ち着ける場所はないかと探していたところ、最終的に川を跨ぐように架かる大きな橋のたもとに落ち着いた。(後から知ったことだが、この橋は四畳半神話体系という小説に頻出する舞台らしい)
いざ腰掛けてみると、落ち着く。
いや、落ち着きすぎるのだ。まるで赤ん坊が母親の子宮に回帰したかのような安らぎ、満足感、大学内にどこにも居場所のない私でも温かく包み込んでくれるかのような大自然に抱かれ、何年かぶりに泣いてしまった。本当に号泣してしまった。涙が溢れて止まらない。どうしてだろう。その時期にちょうど就職活動が佳境を迎えていたこともあり、精神的に圧迫されていたのだろうか。違う。もっと根本的に、私自身が回帰する場所をようやく見つけたことによる安心感からの涙であると気づいたときには、幾分か心の荒波は鎮まっていた。客観的に見ると変な話である。成人男性が橋の下でオイオイ号泣している。一歩間違えると通報案件である。京都が寛大な街で良かった。本当に。

改めて、川を眺めてみる。
滔々と流れる水流の行方について考えたり、佇む水鳥や泳ぐ鴨に想いを馳せてみる。川を眺めながら、これまで私が旅行した各地の記憶を想起したり、今までの学生生活を振り返ったりする。一通り思案が終わったところでポケットからスマートフォンを取り出すと、聴講する予定であった講義が終わろうとしており、2時間近く川を見つめていたことになる。Fate/Heaven's Feelという傑作映画をご存知だろうか?その映画の尺と大体同じである。続編は来年の1月12日に公開予定なので密かに胸を躍らせている。閑話休題。そんなことが問題ではない。2時間も川を見つめて考え事をしていたのだ。正気の沙汰ではない。立ち上がろうとすると、下半身にピリピリと痺れるような痛みが入る。まるでここから立ち去ろうとすることを身体が拒んでいるようだ。仕方なく、ポケットからクシャクシャになったタバコを取り出し、火を点ける。まだ身体も脳も本来の活動をしていないようだ。心の中にポッカリと穴が空いたような喪失感を感じたが、不思議とそれが心地よかった。タバコを吸い終わり、いよいよ重い腰を上げる。問題ない。立ち上がって伸びをすると、蒼穹に鳶が弧を描いてる様子が見えた。限りなく自由だ。私が思うところ、孤独とは自由なのである。人と行動を共にし、対人関係を築き上げるということは、自分自身を不自由という鎖で縛っているように感じる。ただ、1人で川を見つめているその瞬間だけは煩わしい対人関係や抱えている悩みから、自分を解放してあげることが出来る。私にとって川とは、様々な柵や重圧を、水と共に遥か彼方まで流す役割を果たしているのだと考えるようになった。...大学に戻らなければ。途中入講でも誠心誠意謝れば、教授も許してくれるだろう。不思議と、戻る足取りは軽かった。

その日から、大学に通う際は必ずと言っていいほど川に向かうようになった。流石に毎日2時間も思案しているわけではないが、その日に抱えている悩みや心情を、水と共に流す。大学に向かう、帰る。それの繰り返しである。今となっては日課になった川を眺めるという行為だが、これを趣味と定義していいのかは私にもわからない。冒頭でも述べた通り、趣味は人によって多種多様であろう。ならば、この私の川を眺めるという趣味も許されるはずだ。そう勝手な解釈をしながら、私は明日も川へと向かう。